1日、以前から見たいと思っていた映画「それでもボクがやってない」がテレビで放映されました。
これから、私たち自身が裁判人制度に加わるかもしれません。すごく参考になる映画です。なるべく多くの人に見て欲しいと思いました。
罪を犯したり、その人が裁かれたり・・・
普段の私たちの生活の中では、あまり実感のない話です。
もし、この映画の主人公のように、やってもいない罪に問われたら・・・?
考えたくもない恐ろしい話です。
でも、無実の罪で何年も身柄を拘束され、社会的地位を失ったり、人生がめちゃめちゃになることが実際に起こっているのです。
最近では、毎日のように冤罪の二ュースが流れます。
そんなことがどうして起こってしまうのか、どうすれば防げるのか。
ヒントの一つが、この映画の中にあると思いました。
映画の最初に次のようなテロップが流れます。
10人の真犯人を逃すとも 1人の無辜(むこ)を罰するなかれ
以前、「裁判員制度」について、このページでも書きました。↓
http://www.angelchiyoko.net/mt/archives/000496.html
そのときは、この制度の導入の理由がよく分からないと書いたのですが、映画を見てそんな側面もあるのか、と理解しました。
上記のコメントに娘が書いてくれたように、司法はどこからも関与されない独立した組織でなければなりません。
学校でも、三権分立って教わってきました。
でも、実際はそうではない、と言うところに問題の一つがあるんですね。
無罪の判決を出して喜ぶのは誰か?
警察・検察を否定することになる。
つまり、国家に楯突くことになり、出世は出来ない。
無罪判決を出す裁判官には、大変な勇気と能力が必要だということらしいです。
映画の中の裁判官の1人の次のようなせりふがあります。
「刑事裁判の最大の使命は何か」
「無実の人を罰してはならないということです」
すべての裁判官がそういった信念を持って判断してくれればいいのでしょう。
でも、あまりにもそのことに重心が偏れば、犯した罪の真実を見逃しはしないだろうか・・・
必ず、真実が明らかになる、と言う訳ではないところが悲しいですね。
映画の中で、主人公に次のようなせりふがあります。
「裁判は、真実を明らかにする場所ではない
被告人が有罪であるか無罪であるか
集められた証拠で、とりあえず判断する場所だ」
これと同じような話を、以前聞いたことがあります。
富士見町で起きていた、町が住民を訴えた下水道裁判を傍聴した時、弁護士の方がおっしゃっていました。
「裁判官は、テーブルに座ってフォークとナイフを持って『さあ、料理を運んで来なさい』と、待っているんですよ。
そして、弁護側と検察の出した証拠だけで、有罪か無罪を判断するんです」
つまり、疑問を感じたとしても、自ら調査をするようなことはほとんどないようです。
弁護側も検察側も、裁判官を説得できるような証拠を、一生懸命に揃えなければいけないということです。
下水道裁判のときは、裁判官が現地を見に来ました。異例のことだったんですね。
話はちょっとそれてしまいますが、富士見町でも殺人事件があり、現在裁判が行われています。
加害者に同情的な声も多く、小さな子供もいるということで減刑を求める署名運動もおこりました。
私も、署名に協力させていただいたのですが、お願いする中で立場や考え方の違いで難しさを痛感しました。
私は、母親が殺人犯だというだけでも大きなものを背負ってしまう子に、せめて早く母親がそばに戻れるように・・・と考えたのですが・・・
「子供にとっても、お母さんが早く出てくることが本当にいいことなんだろうか・・・」
と言われたときには、確かに・・・そこまで深く考えていなかった、と思いました。
人が人を裁くって、本当に難しい・・・
映画の最後に流れるテロップです。
どうか私を
あなたたちが自身を
裁いて欲しいと思うやり方で
裁いてください