2004年02月13日

2月4日・人権教育町民研修会・講演会

ハンセン病回復者の伊波敏男の「病みすての戻り道」と、題して講演をして頂きました。
伊波さんは沖縄出身で、現在は上田にお住まいです。
長野県の福祉審議会委員、人権尊重プログラム審査委員長を務めていらっしゃいます。

伊波さんは「私の上をハンセン病がどのように通りすぎて行ったか?」と言うテーマでお話くださいました。
伊波さんは人生に何人かのキーマンがいた。とおっしゃいます。

14歳の時にハンセン病と宣告され、ある日突然に高い塀で隔離された診療所に収容されてしまいます。
その日から、まったく別の名前を与えられ「伊波敏男」と言う人間はこの地上から消えてしまったのだそうです。
診療所では中学3年生までの子供たちは共同生活をしていました。
初めて診療所に入った日、伊波さんはあまりに重いハンセン病の方から手渡されたドーナツを食べる事が出来ず「お腹がすいていません」と嘘をつき、
彼がいなくなった後で、お便所に捨ててしまいます。
捨ててしまった後で体中を悲しみが襲い、その人の元へと走り背中にしがみつきます。
『捨ててしまった』と泣きじゃくる伊波さんをその人はただただ、しっかりと抱きしめてくれました。

診療所の生活の中で将来に対する希望を見出せず、
「夜が明けるのが怖い」「自分はいつ、自分の命を絶ってしまうのか」
そんな生活を送る中で、川端康成と、出会います。
川端氏は沖縄を訪れる機会に「ハンセン病の子供と会いたい」と、周りの反対を押しのけ機会をもたれました。
その当時、ハンセン病の患者さんに会うときのマニュアルがあり、頭の先から足の先まで完全防御でした。
でも、川端氏はワイシャツの袖をまくる普段着姿で、伊波さんを困惑させます。
そして、伊波さんを自分の前の椅子に座らせ、自分の太ももで伊波さんの太ももを挟み込むようにして話をされたと言う事です。
そして、その後 伊波さんの希望どうりに川端氏からたくさんの児童書が送られてきます。

その後、岡山の診療所の中に高校が創設された事を知り、お父さんの手引きで沖縄の診療所を脱走します。まだ、本国に入るにはパスポートが必要だった時代です。
鹿児島の診療所では大騒ぎになりますが、その時小さな女性の先生が言った言葉
「何を騒いでいるのですか?あなたたちは又、沖縄を見捨てるつもりですか?」

大学時代に自分が始めてハンセン病である事を告白した友達に
「病気と君の人間性は何の関係もない」。といわれた事

結婚して子育ての中で受けた差別、そして家族との別れ。

日本国民に間違った偏見を植え付けた最大の責任は、明治以来の医療政策
社会防衛と言う大義名分で、特別な法律を作り特別な烙印を押したまま、人権を奪い、特別な隔離地で閉じ込め《病み捨て》にして来た。
国民もまた、この人たちの悲鳴に耳を貸さずに“無関心”で国の過ちを許してしまった。
仏教やキリスト教も、ハンセン病を「人間への罰」の具体例と教えてきた事が偏見を強くした原因の一つ

はずかしながら、泣き虫の私はほとんどずっとハンカチで目頭を押さえっぱなしでした。
お話がお上手なのもあって、まるで小説でも読み進めているようで 途中でメモすることも忘れていました。
そんな中で、私の心に響いた言葉のいくつか・・・
 「人間って一人じゃそんなに頑張れない」
 「私には、知らない多くの日本人に伝える責任がある」
 「私が強かったのではなく、出会った多くの人に支えられて生きてきた」
 「人間はたくさんの過ちをするけれど、そのあやまちを乗り越える知恵がある」

伊波さんのおっしゃるとおりです。
私たちは無関心であったり無知であるためにたくさんのあやまちを犯してしまいます。でも、人に与えられた〝知恵”で、それに気付き、正す事も可能なんですよね。
本当に心に染み入るお話でした。
こんなお話を、今後ぜひ子供たちにも聞かせる事が出来るような機会を持ちたいものです。

貼り主: chiyoko 日時: 2004年02月13日 10:49
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