「市町村単位の空洞化や過疎化現象をオプラートで包むには、合併はよいかもしれない。だが、かつて大合併が明治以降二回ほどあった経過を知るにつけ、地域の歴史や連帯意識が喪失したことを忘れてはなるまいと思う」
岩波書店の「世界」と言う月刊誌の2003年6月号に掲載された合併についての投稿文を。。。
6月12日の境での勉強会の最後に、Oさんが読み上げて下さった。ぜひともホームページで紹介したいと思い、図々しくOさんお願いし、雑誌の編集部を通して、許可を取っていただいた。貴重な文章を引用させていただく事が出来た。Oさんも、ありがとう!
合併という流行
貼り主: chiyoko 日時: 2003年06月15日 10:54
統一地方選のなかで、多くの候補者が市町村合併に必ずしも賛成だとはしていなかった。合併することで、地方議員たちは自分の首を自分て絞めることになるからだ。
これまで国会議員を頂点として県会、市町村会議員という選挙ビラミッドができていた。それは政治資金の流れとしてであり、その時、票には一票いくらとの商品的価値があった。合併によって、その商品に値崩れが起き出した。市町村議員たちは上納できるほどの票を持ち得なくなったのだ。
住民にとっても、合併によって自分たちの生活がどのように変わっていくのかがつかみにくい。行政の説明責任が抽象化しているのではないか。人口が増えることによって、住民負担が減るわけではない。確かに市街地を形成しやすくはなるが、そのために地域によっては過疎化のスビードがより速くなる。合併とは、端的に言えぱ「リトル・東京」を全国に千力所作ることだ。財政破綻した国家運営を地方へ分散化する。権限委譲としての地方分権化という美名は、住民への責任を地方行政に押しつける仕組み作りなのだ。
期限を切って合併をすれば、地方交付金の上積みとか、建設債の国家保証だとかいう「飴」が与えられる。だが、それらはすぺて税金で賄われている。住民にとって、国税だろうが地方税だろうが負担からすれば同じなのに、妙な色づけでごまかしているだけだ。
かつて、村は村なりに、町は町なりに、自分たちの個性を発揮しようと頑張ってきた。少子高齢化というテーマを、住民参加で克服した地方もある。リストラするのが当たり前となっている企業同士が合併して防衛するのと、市町村が合併して人口規模が大きくなるのとは別問題であることを、合併推進論者たちは手品師よろしく隠している。
中核市は合併して、政令市を目指す。町村が合併して市になる。何か、受験勉強に励む子どものような上昇志向がある。だが、政令市になって赤字が減ったかといえばそうではなく、規模が大きくなるほど負担が増えたことを推進論者たちは黙っている。市町村単位の空洞化や過疎化現象をオプラートで包むには、合併はよいかもしれない。だが、かつて大合併が明治以降二回ほどあった経過を知るにつけ、地域の歴史や連帯意識が喪失したことを忘れてはなるまいと思う。
経済優先社会の申し子たちが、今の社会を牛耳っている。だが、彼らの親たちの住所が町から市に変わったとして、生活のありようは、逆に心の過疎化を産む。簡素化とか、合理化といった言葉が口にされる社会とは、人間の本質を機械へと転用させたものだ。
合併という流行に乗って、行政のスリム化だと喜んている住民は、ある意味では正しいのかもしれない。だが、自分の生まれた故郷が消えた時、老いた者たちは心の流浪を味わうのではないか。市町村合併は企業合併とは違うのだ。(岐阜県・50歳)